豊かな命
エリック・チャン牧師による”質の高い命”についての説教集
第一話
1995年於モントリオール
救済とは何だと思いますか?
救済とはただ単に過去の罪の許しということなのでしょうか?そうであることは確かですが、ただそれだけでしょうか?救済とは天国に行きたいと望むことなのでしょうか?それも真実に違いありません。救済はよくこの2つのどちらかとして言い表されますが、私はそれ以上にもっと重要な何かがあると思います。しかし、そのことについて話されるのをほとんど聞いたことがありません。
このことをお話するにあたって、今日のメッセージの中心として、ヨハネによる福音書10章10節を開いて見ましょう。この聖句はヨハネの福音書を読んだことのある人にはとてもよく知られていますが、その意味はほとんど理解されていません。主イエスはここでこうおっしゃっています。”私が来たのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。”
この豊かな命とは何でしょうか?
私たちは命についてある程度理解しているはずですが、この豊かな命というのは何でしょうか?これに関連して、主イエスは救済について語っておられます。更に続けてイエスは羊のために命を捨てると語っておられます。イエスはこう言われました。”私が死ぬことの目的は、(私が来た目的は、)あなた方に命を得させ、豊かに得させるためである。”
それが救済の核心です。クリスチャンであるとはどういうことなのでしょうか?それは命の質に関係があります。つまりそれは”豊かである”と言い表すことのできる命に関することです。ですから、”豊かである”というのはどういうことかを理解することが重要です。
例1:単に生きながらえる
“豊かである”とはどういうことでしょうか?私はイギリスで学生だった頃、よく自転車に乗りました。ロンドンは大きな街で、貧乏学生にとっては交通費がとても高かったからです。聖書学院の先輩が宣教師として日本に行く時、彼の古いオートバイを安く私に売ってくれましたが、とても古くて重たかったので、乗りこなすのには非常に力が要りました。当時の私はもっと痩せていたので、オートバイがひっくり返ると、持ち上げるのは一苦労でしたが、それでもかなり乗り回し、とても便利でした。ガソリンも少なくて済んだので随分節約できました。しかし、こういうものに乗るのはかなり危険で、3,4回危うく死にそうな目に遭いました。その上、雨が降った時は、レインコートがない時など特に、全身ずぶ濡れになり、寒い時期には風がまともに当たるので凍えそうになりました。ロンドンの街を走るともちろん真っ黒に汚れてしまい、時々学校に着くと私の顔は眼鏡をかけていた目の回りだけが白く残って、まるでパンダのようでした。ですから、それはとても基本的なレベルの、非常に危険で、濡れたり、寒さに凍えたり、そしてまた乗った後とてもおかしな姿になってしまったりする交通手段でした。しかし、それは確かに1つの交通手段でした。
例2:かろうじて十分
それから数年たって、少し進歩しました。どうにか古い車を手に入れたのです。今度は雨が降っても濡れずに済みましたし、オートバイを降りた時のようにパンダのような顔になることもありませんでした。それにもちろんずっと安全でした。ただ唯一の問題はその車が非常に古くてエンジンがとても小さいことでした。ハイウエイ(高速道路-英国ではモーターウエイと呼びます。)を走る時、アクセルを思い切り踏み込んで、やっとなんとか最高速度(この車にとっては)の時速55マイルを出すことができました。そのスピードでは車全体ががたがたと震え、まるで飛び立つ寸前の飛行機のような感じでした。振動と騒音を防ぐためにスピードを時速50マイルに落とさなければならず、そうすると目的地に着くのに大変時間がかかりました。このようにオートバイから車へと、生活水準は基本的な必要を満たすレベルからまだ豊かとは言えないまでも以前より少し改善されました。
3:より豊かに
それから数年たって、また少し進歩しました。別の車を手に入れたのです。この車も非常に古いものでしたが、かなり良い状態でずっと大きなエンジンがついていました。こうして、色々なことがだんだんと良くなってきて、少しづつ豊かな状態に近づいていきました。エンジンも十分と言えるレベルで、ドイツ北部からドイツ南部(つまりドイツの端から端まで)を12時間でドライブすることさえ出来ました。ドイツの高速道路を時速70マイルの速さで走っていても、エンジンはとても静かでした。いよいよこれは豊かと言うのに相応しい状態でした。豊かな命とは何でしょうか?先に挙げた例によって少しその像がつかめたかと思います。ではあなたの命はどうでしょうか?あなたは1日1日をやっとの思いで暮らしているのですか?あなたは寒さに凍え、びしょ濡れになりながらどうにか生きながらえているのですか?気温が低くなるたびに凍えたり、雨が降るとびしょ濡れになったりしたくないと思うはずです。より質の高い生活を望んでいるはずです。
私たちはより質の高い生活を望んでいます
生活の質というのは私たちの毎日の生活において本質的なことです。商業や産業の中で起こっていることはほとんど全てが私たちの生活の質を高めることを意図しているということに注目してみてください。もし、そうでなければ、それはいったい何のためでしょうか?
ほんの小さなことを1つ例にとってみましょう。昨今、非常にたくさんの色々な方法で食材を調理することができ、全く驚くばかりです。焚き火やガスの炎を使うこともできれば、また火を全く使わずに料理する方法もたくさんあります。ガスの炎から電気のホットプレートへと進化しました。火を全く使わないのです。電気のホットプレートは熱くなると、実際に赤く光るのが見えるものもあれば、全く赤くならないものもあります。それはかなり危険です。熱いかどうか分からないので、知らずにその上に手を置いたりすると、病院へ駆け込むことになりかねません。
このように人は新しい調理方法を色々と考え出し、今日、感応式調理器と呼ばれる調理器があります。ここ2年ほど前から売り出された新しい製品で、値段もまだかなり高額です。感応式調理器は全然熱くなりません。従来とは全く違った原理を利用していて、スチール製容器の分子を活性化して熱を生じさせる(それはスチールにだけに有効です。)ので、スチール製の鍋は熱くなりますが、調理器そのものは熱くなりません。調理し終わって鍋を下ろすと、調理器そのものはまだ冷たいままです。子供が手を触れても火傷しません。
(対流式調理器や電子レンジは言うに及ばず、)これら全ては、私たちの生活の質を向上させるためでないとしたら、いったい何のためなのでしょうか?何故あなたは働くのですか?何故あなたはより良い仕事を探すのですか?何故コンピューターはサイズがどんどん小さくなり、機能がどんどんパワー・アップしているのでしょうか?それは便利さのためであり、私たちの生活の質を向上させるためです。
他の分野を調べてみても、人類の歴史におけるあらゆる運動の原動力は質の高い生活の追求です。革命は何故起こるのでしょうか?200年以上前にフランス革命を引き起こしたのは何だったのでしょうか?それはパン-つまり基本的な命の糧-が欠乏していたことが始まりでした。どの革命にも生活の質の向上が関係しています。中国では何故革命が起こったのでしょうか?それは人々が抑圧され、農民が土地を持てなかったからです。ですから、革命は人々の生活の質を向上させるために起こりました。人々がこの目標を見失うと、革命は失敗に終わってしまいます。誰もただ革命のための革命など望んではいません。そんなことは無意味だからです。
キリスト教も私たちの生活の質を提言しています
多くの人はキリスト教を信じることは将来天国に行くことだと思っています。それは福音のほんの一部にすぎません。また多くの人がキリスト教は過去の罪を許すことと関係があると考えています。それは真実です。何故なら過去の罪は現在の生活の質を台無しにしてしまうからです。過去は現在に影響を及ぼします。過去から解放されなければ現在を喜んで生きることはできません。
牧師としての仕事上、私は毎日苦しんでいる多くの人々の相談にのらなければなりません。多分あなたも今苦しんでいるかもしれません。あなたを苦しめているのは一体何でしょうか?不幸な子供時代やうまく行かなかった結婚生活など、多くのことは過去からきています。これらのことはあなたに深刻な影響を及ぼしています。過去はいつも現在に影響を及ぼしています。そういう訳で、過去の罪の許しは福音の中のとても重要な部分なのです。罪の許しは今現在豊かな命を生きることができるように過去のしがらみや罪から人びとを自由にするということです。
キリスト教は現在に関わることです。今現在どんな命を生きているか自問してみてください。もしすでにあなたの命が喜びに満ちていて、方向と目的がはっきりしていて、内面的に豊かならば、もちろんあなたには福音は必要ありません。あなたにとって福音とは何でしょうか?もし今あなたが必要なものをすべて持っているとしたら、福音はあなたにとって何の意味もありません。イエス様は医者が必要なのは病んでいる人たちだとおっしゃられました。健康な人に医者は必要ありません。もしあなたが自分は健康だと思っていて、自分が病気だということを知らなかったら、医者が必要だとは思わないのです。
イエス様は私たちに豊かな命を与えたいと望んでおられます。いったいどれくらい多くのクリスチャンが命の豊かさを享受しているでしょうか?ほとんどいないと言っても間違いではないと思います。言い換えると、イエス様の使命はほとんどのクリスチャンに関するかぎり失敗だったということになります。イエス様はこう言われました。”私が来たのは、あなた方が豊かな命を得るためです。”ということは私たちが豊かな命を生きていなければ、イエス様が来てくださったことが無駄だったということになります。では、もしイエス様が私たちに本当に豊かで満ち足りた命を与えるために来てくださったのに、私たちがその命を生きていないとしたら、それは何故でしょうか?
豊かさとは非凡なことです
辞書の中で”豊かさ”という言葉にはふたつの定義があります。ひとつは”非凡”です。ですから、もしあなたが豊かな命を生きているなら、非凡な人生を送っているということになります。あなたの生活が何かしら非凡であり、人があなたの生活を見て、何処か普通とは違っていると感じるのです。最近、あなたのクリスチャン生活を見て、何かしら非凡だと誰かに思われたことがありますか?それとも”もしあなたがクリスチャンなのでしたら、私は別にクリスチャンになりたいと思いません。私は今の自分のままで十分立派に暮らしていますから。”と言われているのでしょうか。私もクリスチャンになる前はそう感じていました。当時、クリスチャンだと公言する人たちを何人か知っていましたが、彼らの生活で特に目を見張るようなことは何もありませんでした。彼らも他の人たちと同じように怒りっぽかったり、喜びが無いように見えました。私の注意を惹いたり、私を福音に惹き付けるものは何もありませんでした。
豊かさとは満たされることです
豊かさという言葉の2つ目の定義は”豊富”或いは”必要以上である”です。先に説明したように、オートバイは単に必要最低限の交通手段でしたが、先ほどお話した、私が最後に手に入れた車は必要最低限のレベルをはるかに超えていました。その車にはヒーターさえ付いていましたから、寒い時にはヒーターを入れて暖かくすることが出来ました。オートバイでは到底できなかったことです。このように、それは基本的な必要を満たすレベルを超え、なんとか持ち堪えるという以上のものでした。
あなたがクリスチャンであっても、またそうでなくても、ここでもう一度尋ねます。あなたの人生はうまくいっていますか?あなたは満たされていますか?ここ数年私が中国を訪れた時、人々が内面的な虚無感を持っていることに気が付きました。ある時、1人の学生が学内を歩いて行ったり来たりしているのを見て、彼女にこう言いました。「随分色々と考えることがあるようですね。」すると彼女は「ええ。一体何のために勉強しているのか分からないんです。」と言って、単刀直入に要点に触れてきました。私は彼女のことを知りませんでした。ヘレンと私はその時ただ散歩しているところでした。彼女は「こういう勉強をして何の意味があるのか分かりません。でも、ものすごく一生懸命やらなければいけないのです。目的があるのなら、それも厭いませんが、もし意味がなければ、物質的な生活の質で人間の内面を満たすことができるでしょうか?」と言って、核心を突いてきました。
私たちには内面的な豊かさが必要です
豊かさには2つの種類があります。それは外面的な豊かさと内面的な豊かさです。外面的な豊かさは内面的な必要を満たすことができるでしょうか?その答えは明らかに「いいえ。」です。更にもっと哀れなのは、外面的にも内面的にもどちらも豊かでない時です。
しかし、外面的に豊かな人たちが、誰よりも悲しく惨めだったりすることもありえます。ちょうどカナダで人生についての統計を読みました。現在カナダでは確かにほとんどの人々が外面的な豊かさを享受しています。それは誰もが百万長者だという意味ではありませんが、誰もが必要なもの、或いはそれ以上のものを持っています。それでもカナダでは約300万の人々が何らかの形でうつ病の治療を受けて、薬を処方されていると1番最近の統計に示されています。その3百万という数字にはショックを受けました。カナダの人口はたった2千100万か、2千200万人ほどですから、ほとんど7人に1人はうつ病に苦しんでいると言うことになります。
外面的な豊かさでは満たされません
外面的な豊かさで心の必要を満たせるでしょうか?その答えは統計を見ればおのずと明らかです。物質では心を満たすことはできません。私は貧しい人びとがこの内面的な豊かさを持っていて、とても幸せなのを見たことがあります。彼らはほとんど何も持っていないのに、とても幸せなのです。それは幸福と内面的な豊かさが、外面的な豊かさとは何の関係もないことを示しています。このことを理解するのは大変重要なことです。それが命の質の本質的問題だからです。
クリスチャンが、イエス様がもたらすために来てくださった命の質に相応しい生き方をしていなければ、福音を伝えることはできません。それでは何故ほとんどのクリスチャンがこの命の質を得ていないのでしょうか?おそらくそれはその基本的条件を理解していないからです。
いかにこの豊かさを得るか?
最近、私がモントリオールから戻ってきた時、当然ながら車を動かすことができませんでした。多分ご存知のように私の車は骨董品だからです。もう18年になりますから、カナダでは選挙権がもらえる年です!1年以上置きっ放しだったので、鍵を差し込んで回しても当然ピクリともしませんでした。メーカーの説明によると毎時100ミリアンペア充電できるという最新テクノロジーを使ったソーラー・パネルの充電機を取り付けておいたのですが、結局効果はありませんでした。置いて出てきた時、バッテリーは良好な状態だったのですが、もうすっかりだめになっていました。
修理工を呼んで来てもらいましたが、彼のバッテリーを使っても車を動かすことができませんでした。車をガレージに牽引して行ってから、2つのことをして問題を解決することができました。1つはオイルを交換することでした。オイルが固まって重くなり、エンジンが動き辛くなっていたからです。2つ目は新しいバッテリーを取り付けることでした。古いバッテリーはもう充電することが出来なかったからです。この2つの大きな取替えが必要でした。エンジンの動きを妨げていた古いオイルを取り除くことと、新しい力の源を取り付けることです。
多くのクリスチャンはこの2つのうちの1つしかやっていないのではないかと思います。彼らは神様のもとに来た時、罪を告白して、過去の汚れを清められました。古いオイルを取り除かなければ、エンジンが動かないからです。しかし、もしそこに新しいバッテリーを取り付けなければ、やはり問題は解決しないままです。その新しいバッテリーに相当するものとは一体何でしょうか?新しい力の源です。多くのクリスチャンがまさにこれを欠いていると思われます。主イエスはこう言われました。”私は命である。”(ヨハネ14章6節)イエス様が私たちの内に命として、力の源として来てくださらなければ、前に進んで行くことはできません。
私たちには新しい力の源が必要です
あなたはこの新しい命の源を持っていますか?コロサイ人への手紙3章4節でパウロは”私たちの命なるキリスト”と言ってます。イエス様は私たちに非凡なる命を与えるために来られました。もしこの命が欠けているとしたら、それは私たちのクリスチャン生活にとって深刻な問題です。それは私たちが、私たちの内にこの新しい命を得ていないと言うことになります。また、力がほとんど無いのであまり長くは働けないということになります。
私たちの生活を見てみましょう。例えば、人間関係で何か問題がありますか?クリスチャンの間で、婚姻関係などにおいて多くの問題があるのを見かけます。共同生活をしている場合にも、常に何かしら問題があるはずです。自分の中で、自分自身に対してさえ問題があるのは言うに及ばずです。こういう色々な問題を抱えたまま、クリスチャンは色々な活動に参加しています。時には教会のリーダーとしての責任を負っていたりすることもあります。教会がどんな問題を持つことになるかがこれで分かると思います。ですから、非凡なところが少しもないクリスチャンに出会ったとしても驚かないでください。大多数がこのような状態なのですから。
一番難しいのは今までの古い命を取り除くことです
古い命を取り除くことは、最も難しいことです。何故、バッテリーは車の中に置きっ放しだったのでしょうか?もちろん私はバッテリーを車から取り出して、冬の間に凍ってしまわないように家の中に保管しておくことが出来たはずです。事実、そうしようと試みたのですが、取り出すことができなかったのです。それはやり方を知らなかったからではありません。私は過去に何度も車からバッテリーを取り出したことがあります。しかしこの時そのバッテリーがあまりにもしっかりと車に固着していて、どうしてもはずすことができなかったのです。ガレージの修理工は私が持っていない道具を使ったのではずすことができました。
それは多くのクリスチャンに共通した問題です。新しい命を入れるために、古い命を取り除くことが出来ないのです。どんなに一生懸命試みても、古い命が相変わらずそこに
固着したままなのです。
この新しい命とは何でしょうか?それはイエス様が力の源である命を生きるということです。私たちが完全に自分自身をイエス様に明け渡した時、イエス様だけが私たちの中から古い命を取り除き、彼の新しい命と入れ替えることが出来るのです。
何故私たちは古い命を取り除かなければならないのでしょうか?それはその命は罪のある命だからです。罪は全ての命を破壊してしまいます。それで、教会では罪の問題について説教をするのです。私たちは罪について話すことを好みませんが、必ず取り扱わなければならないということを理解しなければなりません。ちょうど病気が私たちの肉体的な命を破壊するように、罪は私たちの霊的な命を破壊します。
ほんの小さな1つの罪でも、私たちの命を破滅させることができます
あなたは心の中に何か罪を隠し持っていませんか?ほんの小さな1つ罪で、あなたの命は破滅します。例えば、不安を例にとってみましょう。今日、ほとんど誰もが不安を感じています。不安は罪でしょうか?びっくりするかもしれませんが、その通り、不安は罪です。何故でしょう?それは、不安は神様に対する信仰のなさを現すからです。神様に対する信仰がないということはクリスチャンにとっては罪です。もしあなたが神様を信頼していたら、不安になったりしません。
心配ごとはいくらでもあります。仕事はどうなるだろう?健康はどうなるだろう?交通事故が起こらないだろうか?車に交通安全の小さなお守り(たとえば聖徒の肖像など)をぶら下げている人もいます。不安はあらゆることを腐食してしまいます。医者でなくても不安を抱えているかどうか顔を見れば分かります。ガールフレンドが明日も自分を愛してくれるだろうか?夫は浮気などしていないだろうか?子ども達が良い子に育つだろうか?麻薬の誘惑に負けたりしないだろうか?もし子ども達がトラブルに巻き込まれたらどうしたらいいだろうか?勉強している人は、成績のことを心配して、もし良い成績がとれなかったら、自分の将来はもう終わりだと思ったりします。不安と心配。いかに不安が私たちを腐食するかというのはとても恐ろしいことです。
不安以外にも、私たちの生活のなかにはあらゆる種類の罪があります。ガラテヤ人への手紙5章18-21節に挙げられている罪の目録を見てみましょう。ねたみ、不和、性的な罪などです。全ての罪はどんなに小さくてもあなたの命を破壊します。ですから、イエス様が罪を取り除くために来てくださったのです。
義は命の質をもたらす
何故教会は義について教えるのでしょうか?それは義が命をもたらすからです。
ビジネス界でさえもこの原理の重要性について認識しています。先日、私は微笑がもたらす良質さについて書かれているものを読みました。もちろん、良い生き方をしていなければ、微笑むことができません。
よもやできたとしても、とても難しいと感じるでしょう。この調査では何故人びとが他の店ではなく、ある特定の店で買い物をするのかを解明しょうとしていました。それはその店がより多くの品物を揃えていたからでしょうか?いいえ、違います。調査によると驚くべき答えが明らかになりました。その店が他と違っていたのは、レジ係りが顧客に微笑みかけるということでした。
これには驚きました。微笑みひとつで顧客がまた戻ってくるほどの影響があるのです。これは本当に一考の価値があります。言い換えると、人々はただものを買うためだけにそこに行ったのではなく、微笑んでもらえることを願っていたのです。そんな微笑みが必要なほど、霊的に貧困なのには、驚くばかりです。
夫婦間でも、お互いに微笑み合うことを忘れてしまっています。毎日顔を合わせているのに、微笑む必要などあるのかというように。もしまだ微笑むことができるとしたら、結婚生活においても微笑みひとつが驚くほどの影響を持っています。
イエス様はたとえ困難な時でも微笑むことができる命を与えるために来てくださいました。それが、”豊かな命”の第一の定義です。つまり非凡な命です。ではこの非凡な命とは何でしょうか?それは誰もが微笑む理由など見つけられないという時に微笑むことができるということです。全世界が陰気でむっつりしている時も、クリスチャンは微笑むことができるはずなのです。
微笑みだけが喜びの証しと言っているのではありません。私はよく喜びを感じますが、いつも微笑んでいるわけではありません。しかし、時として喜びは微笑みとなって現れるはずです。もちろん中には訓練されていていつでも微笑むことができる人もいます。微笑みの表情が顔に固定されているような感じです。ちょうどその店のレジ係りのようにです。彼らは訓練されて顧客に微笑むことを命じられているのです。彼らの心の中には全く喜びが無いかもしれません。イエス様以外、どこで真の喜びを見つけることができるでしょうか?
イエス様は私たちの内に力を与えるために来てくださった
イエス様が来てくださる時、私たちに命、つまり内なる力あるいは能力を与えてくださいます。このテーマだけでも説明するのに長い時間を要します。しかし、非常に簡単に言うと、つまりこういうことです。自分の命を生きていながら、一歩退くということです。自分の感情を脇に追いやるのです。気持ちが落ち込んだり、沈んだりしているかもしれません。でもこれらの感情をすべて脇に追いやるのです。過去の古い自分自身とともに捨て去って、そしてイエス様に取って代わっていただくのです。
いつもこのようにしなければなりません。私の内に生きておられるのはイエス様なのです。いくらイエス様は私の命ですと言っても、イエス様に本当に私の内で生きていただかなければ意味がありません。そしてイエス様に私の内で生きていただくためには、私は邪魔にならないように退かなければなりません。心の中で不安になることがあるかもしれません。しかし不安を感じたらすぐに「主よ、許してください。またあなたの邪魔をしてしまいました。さあ、どうか私の内であなたの生き方で生きてください。」と言うのです。
質の高い生き方の決定的要素を理解し始めていただけたらと思います。それはイエス様が私たちに与えるために来てくださった豊かな命です。”私が来たのは、羊に命を得させ、豊かにさせるためである。”
また、神様の恵みによって、あなたの人生においてこの質の高い命が現され、また実現されることを願います。そうすれば、人々があなたに会った時、「うーん。この人は他の人とは違っている。」と言うことでしょう。
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